« デザイン更新と、リンクに関するお知らせ | メイン | IEとFirefox »

2004年11月 9日 (火)

暴力はいつだって悪……なのだろうか?



 いつものようにいつものブログを訪れて、そこからあちこちに足を運ぶと……。

 島田紳助氏と香田証生氏の話題があちこちで取り上げられている。それほど多くのブログの記事やコメントを見たわけではないが、暴力はいかなるケースにおいても悪である、と発言する人がいて驚く。いや、驚いてはいない。確かに理想的ではあるし……本来、碧の見解はそういった意見に同感である。

 もう一つ、死んでしまった人の悪口を言わない、というのも人間の美徳だという見解にも賛同できる。

 しかしながら、それでは思考停止でしかない。限界を超えて……常識を無視して……とにかく突き詰めて思考しなくては、新しい道は拓けない。拓く必要なんてないのではないか、という意見ももちろんあるだろうが、そこもまた議論の必要のあるところであり、これまた突き詰めて考えなければならないわけである。つまり、重要事項が重要事項であるかどうかの審議は重要事項であるということだ(この一文は、エディングスファンのためのギャグなので、通常の読者の皆さんは気にしないでいただきたい)。

 ずいぶんと話が逸れた。

 さて、暴力は本当にいけないことなのだろうか(これが今回の本題である)。日本においては、暴力がいけないこと、という見方はかなり正しい。何しろ、国家間の紛争を解決する手段としての武力行使を行わないと憲法において明言しているほどで、これは感動的なまでに理想主義である。けれども、侵略を受けた場合は別だ。自衛のための闘争は認められている。

 いささか古い話になるが、J.ロックという人物がいた。彼は、抵抗権というものが、人類に生まれつき与えられた正当なる権利であると主張している。具体的には、君主の圧政が耐え難いものとなったとき、革命を起こしていいとする権利だ(少し厳密さを欠く説明である)。

 これらを踏まえて、暴力の話に戻る。暴力は必ずしも悪であろうか。そうではない……とここまで読んだ人に思って貰えなかったなら、碧が何か文章を書き間違えているのだろう。

 つまり、やむにやまれぬというか、あるケースにおいては暴力は肯定し得るのだ。例えばだが、貴方がナイフを持った暴漢に襲われた場合に、近くにあった椅子で、暴漢を殴り倒して致傷せしめたとしても、それは肯定しうる暴力であると言えるだろう。

 では、次に考えることは単純である。どのケースでは暴力が肯定できないのか。もちろん、全てのケースではないのは先に見た通りである。

 先程の例に戻る。8歳の暴漢が手にポップコーンの入った紙コップを持って、貴方に襲いかかった場合、貴方は彼(或いは彼女)を金属のバットで殴り倒していいだろうか。答えはノーである。少なくとも、常識ではそうなっている。理由としては、危険度が低いからだろう。

 この場合の危険度とは何か。日本の法律においては、これは主観的な判断によるものであってはならないとされているはずである。つまり、一般人の通常の思考力によって、危険が重大でかつ差し迫ったものであると判断されなくてはならないのだ(少し誤りがあるかも知れない)。

 ここで、なるほど、と貴方は思うかも知れない。

 では、別のケースをあげよう。9.11のテロの数ヶ月後、飛行機で貴方の隣に座った人物が、寝言で「自爆テロ」「目標はノースフォーク」などと発言した場合に、貴方はどうするべきか。さらに言うと、乗務員に知らせようとしたときに、隣の乗客が突然目を覚まし、貴方に殴りかかってきた場合は。

 貴方が彼(或いは彼女)を押さえつけて拘束した後で、その人物が、自分がテロリストに襲われる夢を見ていただけ、という事実が判明するかも知れないのだ。

 結局のところ、暴力という解決法が許されるのはシチュエーションによる、というのが結論である。そして、暴力というキーワード、或いは現象だけで物事を判断しようとするのは、社会的であっても知性的ではないということである。

 果たして、人間は社会的な存在なのか、はたまた知性体であることが本質である存在なのか。この度の問題自体はさておいて、この話題に関わり、意見を述べる人々にはそういった根本的な問いが突きつけられているという意識が必要だ、と碧は考えるのだが……。



トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://www.typepad.jp/t/trackback/6878151

このページへのトラックバック一覧 暴力はいつだって悪……なのだろうか?:

コメント

コメントを投稿